眠る前に、ほんの少しだけ、夢の話をしましょうか。
「お人形」という存在の不思議について。
私にとって「お人形」は、高嶺の花でした。
金銭的な意味でも高嶺の花でありましたが、なんだか存在自体がとても遠く感じました。
憧れてやまない、でも、私にはもったいない。
そんな気持ちがどこかにあったのかもしれません。
お人形をお迎えできる人はいいな、と心でいつも思いながら、
私にはたったひとり、特別な子がいればいいや、と思っていました。
特別な子が私のおうちにやってきてからも、
それでもやっぱりお人形の存在は私にとって少し遠い。
ただの≪物≫として思えない。
自分が≪所有している≫という感覚もあまりない。
≪ただ、お互いに必要としあっていて、いま、一緒に過ごしている≫という感覚かもしれない。
どこかで人形に自分を≪選んでもらった≫という感覚が、自分がお迎えするときにもあるのです。
夢を言うと、私の乙女屋は開店当初から本来はそんなお店でありたかった。
でも、「お人形は高嶺の花」だったし、自分の好きな子しか扱いたくないけれど、自分の好きなお人形を手放すなんて考えられない!という二つの理由から、人形屋はあこがれ、と決めつけていた。
だから、扱っていたのは雑貨だったけれど、物としての雑貨ではなくて、たとえ既製品であっても、特別なものとして生み出されてて、買ってくれる人を特別に幸せにするような出会いを提供したかった。
「どうせ絶対うまくいく保証なんてない、この時代の小売店。
だったら最初から本当のやりたかったことを目指せばよかった!」
って。
私の思い描く人形屋は、世間の人にとっては人形屋ではないと思います。
乙女屋が好きな人形しか置かないから。
それに、私にとっての人形と同じ役割をしてくれるものだったら、布花だって、アンティークレースだって、くまさんだって、私にとってはお人形だ、なんていいたくなるから。
(でも、それはあんまり大声ではいわないほうがいいよ、って仲良しのお友達に言われたので、ここだけの話ね)
でも、今の時代、もう、なんでもありやんなーって思います。
とあるお客様にききました。
「乙女屋がどうやったら、これからも続いて行けるかな?」
そしたら、その人、すぐに即答した。
「ここにしかないものを扱うことね。
そうしたら、それを好きな人はどうしてでも探して、どうしてでも来ると思うよ」
って。
だから、私にしか、わからないかもしれないけれど、人形屋を目指そうと思います。
去年の12月の心地よさをまた、感じたいです。