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幻の少女時代

かわいいもの、甘くて。
だけど甘いだけじゃなくて甘酸っぱいようなもの。

金子国義さんが言うところの
「なつかしいもの、やさしいもの、しかし、ただそれだけでなく、その中心に悲しみのようなもの、生きることの悲しみのよあなものが混じっている、そういうものが好きだ」(The西洋骨董*読売新聞社)

不精ながら、私もそういうものが好きである。

ただし、私の場合はそのなつかしさが、必ずしも私の記憶や体験の中にあるからなつかしいかというと、悲しいかな必ずしもそうではない。

あるだけで世界の空気が変わるようなお洋服だったりティーカップだったり、
お人形だったり古いレースだったり。
好きじゃない人にとっては、ただの汚いものなのに、ぼろぼろに変色した毛皮のテディベア。

私が好きなものは、そんなもの。

よい趣味をお持ちの方は、そもそも育った環境が素敵で、
ばあさまの大切にしていたお人形を譲り受けたことから、お人形が好きになった、
とか、
ご実家の蔵に眠っていた古布を利用しようと思って...。
幼い頃にもらったレェスのドレスが忘れられなくて...

なんて、そういう品々との思い出を聞かせてもらうとなんとも羨ましい。

私はごくしかし、普通の家庭で育ち、多感な少女の時代に、少女の為の品々に出会う機会はなかった。
今になって何の役に立たなくて、しかも価値だって対してないようなくたくたになった古い別珍りぼんや、古いお花のコサージュ、レェスのハンカチや古いドレスの切れ端を、大切に眺めたりしてなつかしがったりしている。

一体何がなつかしいというのだろう?
私に、そんな品々との思い出はないはずなのに!

古いレースのハンカチをうっとり見つめながらひとりで好きな音楽に浸るとき、
そこに時間や場所や個性は存在しない。
私という人間の存在もこえて、美しいものにひたりきってる。
そのとき、きっと私はただの「少女」。
アンティックのポストカードに閉じ込められた「少女」のように、
何も持たず、幻の、妄想の、架空の時間を生きている。

生きていくなかで、夢を持っていたら持っていた分だけ、
人はどうしても傷ついて場合によってはずるさも覚えてしまう。
だけど、傷ついたことのある私だからこそ、汚れたレースのハンカチを、
くたくたにつかれたテディベアを大切に思うのかもしれない。
大切に思った分だけ、それらは私に、束の間の夢を見せてくれるのだろう。
傷ついたって、悲しくたって、夢を大切に現実を生きる。
そんなことを考えた一日でした
by otomeya | 2005-08-04 10:18 | 乙女文学


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