共感してもらえるということは、とても嬉しい。
共感しあえるという瞬間は、もっと嬉しい。
乙女屋を訪れてくれる人に、来てよかった!と思ってもらうために、
たくさんたくさん、話をした。
そして、共感できることを、探そうとしていた。
だけど、すべてがすべて、共感だけで物事を考えるのは限界がある。
そんな当たり前のことに、やっと気が付いた。
共感できないものは、必ず存在する。
そもそも、そういうもののほうが多かったはずである。
だから、お店を始めたのだから。
共感でないものを共感できないもののまま認めたいと思う。
世の中には、共感できないものが存在していい。
必ずしも共感する必要はないし、共感されることを強制もしないこと。
それが当然の自然な状態なのだと、もう一度気が付いてほしいと思う。
同時にそれは、私にも(あなたにも)、相手に共感しないでよい自由もある。
そういうことだ。
それが何故大切なのかというと、そうじゃなくちゃ、自分の中の共感されないものを、なんだか粗末な欠陥品の烙印を押されたような気持ちになってしまうから。
それはとても悲しい。
相手の中にある大事なことに、そんな烙印も押したくない。
共感してもらえないものだって、大事にしていい。
当たり前のことなのに、これを頭ではなく深いところで理解するのに、結構時間がかかりました。
このことに関しても、共感しない人がいても当然だし、それでも別に、いい。