失われていくもの。変わりに手に入るかもしれないもの。

どんなに「少女」の繊細な存在に憧れても、
お人形ではないかぎり、歳を重ねてしまいます。
歳の数字に惑わされないように、
つまらない常識にとらわれないように、
なんて言って見ても、
確実に十代の女の子の肌ではないのです。

あの、肌の下のみずみずしさ。
重力に逆らって膨らんだ薔薇色の頬。
うるんだ黒目、艶やかな髪、幼さの残るふくよかな手足。

失った今となって、その年頃の女の子を見る度に、
若さという美しさを美しいなぁ、と思います。

バレリーナの宿命の悲劇を描いたドキュメント映画「エトワール」では、
知性、人間的な感情を表現する力、
バレリーナとしての身体的技術を手にするころ、
若さからくる美しさはくだり坂に差し掛かるという宿命が描かれていました。

知識を学び、歳を重ねて悲しみも喜びも知り、
技術も身についてそれを心から表現できるようになるには月日がかかる。
積み重ねてきたものが、完成に近づく頃、
年齢からくる美しさが散りゆく桜のように一瞬のしか残されていないのだという。
一瞬が終われば、バレリーナたちは舞台を去っていくしかない。
エトワールも、その他もみんな。

さて、となれば、少女に焦がれる女性の私はどうすればいいのだろう。
亡き少女の像に醜くすがりついて、
似合わなくなった少女のドレスを着ているのは、イヤ。
でも、好きでもない、ときめきのないお洋服は着たくないし、
そんな生活もイヤ。

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この何年か、圧倒される思いで見つめ続けている桜の若木がある。
公園で種を拾ってきて鉢で育て、
その後に移った新しい家の、小さな中庭に植えた。
若木は土に根を下ろしてから、信じられぬ勢いで枝を伸ばした。
初めての花を咲かせた春は、感動で叫びたいほどだった。
それから新芽や夏の緑や秋の紅葉、
冬枯れの裸の枝さえもが美しく感動的に思えて、
眺めるたび涙が滲むのだ。
あの桜のようにのびやかに美しく、風や太陽とあんなにも気儘に語り合う、
同じ存在であってほしい。
と、若い女たちのひとりひとりに囁きかける。
顔を見て話すことは不可能なので、
四季に創る服のひとつひとつを通じて話した。

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少女のように、若木のように。
年齢などは超越して、永遠に輝かな魅力をいつも生き生きと息づかせていてほしい。


(金子功のブラウス絵本/文化出版社より引用)

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バレリーナでない私たちは、若さが失われてしまっても、
他のもので若さゆえの美しさ以上に美しいもの
を持つことがきっとできるのです。
少女の心を大切にしながらも、
それにいつまでもしがみつくのではなく、
いつまでも見た目だけのわかりやすい少女らしさにこだわるのではなく。

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東京 高円寺にある名曲喫茶「ネルケン」のマダムはまさにそのような理想の女性。
ふっと出てくる言葉の美しさ、心使いの優しさ、たおやかな仕種。
私はすばらしい名画を前にしたように、
言葉を返すこともままならず、涙ぐんでしまうことすらあります。

何をどうすればああなれるのか。
その方法は知りません。
方法なんてないような気がします。
いつも、自分が好きでいられるように、
時にはほんの少し強がってみせたり、
そんなことをしながらも、歳を重ねるほど、
少しずつでいいから、若さの変わりの美しさを模索したいと思います。

まとまりなく、つれづれに書いてみました。
何か、伝わることがあればいいな。
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by otomeya | 2005-08-15 10:28 | 乙女文学


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